「龍吟」の料理をいただくときも、同じような事態に出くわすことしばしばである。忘れられない前菜の一皿「マナガツオの“づけ”と蕗・セロリのお浸し ピスタチオ豆腐の“白和え”と共に」がそうだった。
マナガツオを醤油漬けにしたものに蕗とセロリのお浸しを添えてあり、それだけでも十分に美味しいのに、そこに淡い緑の豆腐の裏ごし、つまり“白和え”がかかっている。ここで、淡い緑色がついたものなら、正確には白和えとは呼べないと注文をつけてはいけない。ピスタチオの風味を加えることで新しい味に挑戦しているのだ。それにもうひとつ、風味を加える以上の価値と思われるのが、色つきの豆腐に仕立てている点である。日本人なら、豆腐は白色に決まっていると知っているし、味わいも熟知しているが、外国人が豆腐の色から連想するのは無色無味ではないかしらん。山本征治料理長は、豆腐に淡い緑色をつけることで、外国人にも豆腐の味の予想をつけやすくしていたのではなかろうか。
そうして食べてみれば、すべてが氷解する。マナガツオと蕗とセロリで、早春の香りが器から漂い、翡翠のようなピスタチオの白和えが、これまた春の霞のような趣を添えている。洋の木の実を使いながら、季節感溢れる日本料理の哲学と美学が見事なまでに表現されていた。
新進気鋭の料理人の創り出す、ひらめきに満ちた料理を食べる楽しさは格別である。歳月をかけて幾多の料理を経験してきた舌であっても、見慣れぬ料理のまえでは、一瞬立ち止まり、食べてはみずからの経験と照らし合わせて、その美味しさを判断する。なんでも分かっているようで、じつはこちらの感覚が試されていることがいくらでもあるのだ。記憶と経験に頼りすぎると、先ほどもいったように保守的になって新しい地平線の味を認めようとしない。
これはなにも、料理に限ったことではない。芸術、芸能にも共通することで、新しい才能に出逢ったとき、その力量を十分に理解できるかが問題で、本来は、その新しい才能を認めるためにこそ、過去の記憶と経験が生かされるべきなのではなかろうか。
自分の感覚が錆びついていやしないだろうかと、つねに懐疑の念を抱きつつ、臆せず新しい味に立ち向かい、そして、誰よりも早くに新しい才能に着目し、応援する、そのためにわたしたちは”食べる技術“を磨き続けなくてはならない。