マスヒロ歳時記

料理評論家・山本益博 < Masuhiro Yamamoto > Official Blog

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新世代の料理を食べる<2>

「龍吟」の料理をいただくときも、同じような事態に出くわすことしばしばである。忘れられない前菜の一皿「マナガツオの“づけ”と蕗・セロリのお浸し ピスタチオ豆腐の“白和え”と共に」がそうだった。

マナガツオを醤油漬けにしたものに蕗とセロリのお浸しを添えてあり、それだけでも十分に美味しいのに、そこに淡い緑の豆腐の裏ごし、つまり“白和え”がかかっている。ここで、淡い緑色がついたものなら、正確には白和えとは呼べないと注文をつけてはいけない。ピスタチオの風味を加えることで新しい味に挑戦しているのだ。それにもうひとつ、風味を加える以上の価値と思われるのが、色つきの豆腐に仕立てている点である。日本人なら、豆腐は白色に決まっていると知っているし、味わいも熟知しているが、外国人が豆腐の色から連想するのは無色無味ではないかしらん。山本征治料理長は、豆腐に淡い緑色をつけることで、外国人にも豆腐の味の予想をつけやすくしていたのではなかろうか。

そうして食べてみれば、すべてが氷解する。マナガツオと蕗とセロリで、早春の香りが器から漂い、翡翠のようなピスタチオの白和えが、これまた春の霞のような趣を添えている。洋の木の実を使いながら、季節感溢れる日本料理の哲学と美学が見事なまでに表現されていた。

新進気鋭の料理人の創り出す、ひらめきに満ちた料理を食べる楽しさは格別である。歳月をかけて幾多の料理を経験してきた舌であっても、見慣れぬ料理のまえでは、一瞬立ち止まり、食べてはみずからの経験と照らし合わせて、その美味しさを判断する。なんでも分かっているようで、じつはこちらの感覚が試されていることがいくらでもあるのだ。記憶と経験に頼りすぎると、先ほどもいったように保守的になって新しい地平線の味を認めようとしない。

これはなにも、料理に限ったことではない。芸術、芸能にも共通することで、新しい才能に出逢ったとき、その力量を十分に理解できるかが問題で、本来は、その新しい才能を認めるためにこそ、過去の記憶と経験が生かされるべきなのではなかろうか。

自分の感覚が錆びついていやしないだろうかと、つねに懐疑の念を抱きつつ、臆せず新しい味に立ち向かい、そして、誰よりも早くに新しい才能に着目し、応援する、そのためにわたしたちは”食べる技術“を磨き続けなくてはならない。

noma

2013/01/05 カテゴリー: 05.料理羅針盤 | 個別ページ

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新世代の料理を食べる<1>

IMGP7368 (2)5年ほど前、ロンドン郊外ブレイ・アン・テームズにある「ザ・ファット・ダック」のテーブルに初めて着いたとき、突き出しのような形で出てくる最初の一皿が、長方形の白い皿にのった正方形の2種のジュレだった。ひとつはフランボワーズ色した濃い赤のゼリー、もうひとつはオレンジ色したゼリー。

テーブルに皿を置いたサーヴィスマンは、「オレンジから召し上がりください」と言って立ち去った。そこで、まずはフォークでオレンジ色のジュレを少し取り口へ運ぶ。ところが、オレンジの香りはなく、いっこうにオレンジの味がしない。どうしたことかと、もうひとつの濃い鮮紅色のジュレを切り分け食べてみると、あのシチリアのブラッドオレンジの香りと味わいがたちまちのうちに口のなかに拡がってゆくのだった。それでは、はじめのオレンジ色したジュレはいったいなんだったのかと、いま一度残ったジュレを口に含み、その味わいに思いを馳せると、なんとビーツだった。

いきなりしてやられたと苦笑いしてしまったのだが、考えてみれば、これから出てくる「ファット・ダック」の、化学を応用した料理を楽しむためには、今まで食べてきた料理の記憶や食事の経験の一切を忘れて、まっさらな気持ちで料理と向かい合ってくださいというシェフのヘストン・ブルメンタールのメッセージに他ならないことに気づくのだ。

これは、じつは永年料理を食べこんできた者にとって、とても示唆に富む内容を含んでいる。そもそも味覚というのは、あらゆる感覚のなかでもっとも保守的であるから、ついつい記憶と経験に頼って判断しがちである。つまり、新しい味に対して、慎重に、時にははじめから否定的な態度を取りがちになる。若い才能が未知の美味しさを表現しているというのに。

例えば、同じく5年ほど前の白金台の「カンテサンス」や六本木の「龍吟」で新世代の料理人の料理を楽しんでいるとき、しばしばこのような場面に遭遇した。

例えば、「カンテサンス」のブーダンとりんごのタルトにフォアグラのソテーを添えた一皿。豚の血を加えて作るソーセージをブーダンといい、パリのビストロでは定番の伝統料理を、岸田周三シェフはソーセージの筒状を拍子木状に変え、その土台にりんごをキャラメリゼしたものを敷いた。一見すると色合いはパティスリーのタルトタタンによく似ている。この上にフォアグラのソテーがしなだれかかっているのだが、ブーダンにフォアグラは素材の重ねすぎと思いながら、フォアグラにナイフを入れると、たちまち崩れてソースと化していった。

そういえば、いま皿を置いていったサーヴィスが「ブーダンとりんごのタルト・フォアグラソース添え」と言い残して立ち去ったものの「フォアグラ添え」のいい間違えではなかろうかと勝手に判断していたのだった。ブーダンとりんごは古典的な相性の良さを見せるが、そこにフォアグラの油脂と香りを組み合わせると、かつてない妖艶な味わいが発露した。その新しい発見に、過去の記憶、経験が邪魔をするのだ。この料理にフォアグラは屋上屋を重ねるものではないかと。

2013/01/04 カテゴリー: 05.料理羅針盤 | 個別ページ

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紀宮様の御結婚披露宴

塩野七生「紀宮様のご結婚に想う」

塩野七生の「日本人へ リーダー篇」(文春新書)を書店で手に入れ、目次を開いて眺めていると「紀宮様の御結婚に想う」のタイトルが目についた。そこで、そのページから読みはじめると、ハタと膝を打ちたくなるような一文に出会った。ちょいと長いが引用を許されたい。


「その日は他の多くの日本人同様にテレビの前にいることの多かった私だが、その間にもわきあがってきた想いが二つある。その一つは、結婚式を終えられて記者会見の席に出てこられたときの、黒田氏と新夫人の御二人。もはや皇室から離れ一民間人になられたとはいえ、先を進むのは黒田氏で、元宮様はその一歩か二歩後を歩かれていた。三歩遅れて夫の影を踏まず、だったか忘れたが、今では誰もそのようなことはしない。それに、見た眼のも不自然である。黒田氏は、皇女でも今は自分の妻になった女人を、背に手をまわすなどしてエスコートする形で人々に紹介するのでよかったのではないか。この頃の日本男子でも、女がいても平気で先を進むなんて、六十以上でなければやりませんよ。

と思いながら今朝のテレビを見ていたら、海の記念日とかに出ておられる両陛下が映っていたのだが、階段を登られるときに天皇様が、皇后様の背に軽く手をまわされ、実に自然にささえていらっしゃるのが見えたのだ。あれでいいんではないかと、ヨーロッパに住んでいて各国の王室を見ることの多い私には思える。品位を保つことと自然に振舞うことは、少しも矛盾することではないのだから。

想いの二番目は、一言で言ってしまえば、紀宮をこのまま完全な民間人にしてしまうのでは、あまりにもモッタイナイということだ。これまでは数多く果たされてきた公式行事も以後はいっさいなくなり、となれば一公務員の妻としてスーパーやコンビニへの出入りもすることになるのだろうが、あそこまで皇女として育てられた方なのに、それではモッタイナイというわけです」

慎ましやかな披露宴

2005年の紀宮様の結婚式当日、わたしはタイのバンコクにいた。だから、テレビではなくパソコンのインターネットのニュースで披露宴の様子などを知ったのだった。そのニュースによれば、帝国ホテルでの結婚披露宴は、両陛下がご出席のもと、百名ほどの招待客で、乾杯にはドン・ペリニョンがふるまわれたが、「慎ましやか」なものだったと報じていた。わたしは仕事柄、帝国ホテルでの結婚披露宴の料理と飲み物がどんなものであったかを知りたくなり、日本へ帰るとすぐに、ホテルの知人に聞いてみた。すると、報道されていない意外な事実がいくつも分かってきた。遅まきながら、それをここでご紹介しようと思う。

披露宴でのメニュー

まずは、料理。メインディッシュに供されたのは、子羊の料理で、牛肉料理ではなかった。外国の賓客を招いての宮中での晩餐会では、主菜は牛肉と決まっていて、それ以外の肉は出されたことがない。なぜ、今回、帝国ホテルでの披露宴とはいえ、牛肉ではなく子羊肉がメイン料理としてサーヴィスされたのか。黒田さんと紀宮様がホテルで前もって試食された結果のことだという。ホテル側は4種の肉料理を用意し、3種は牛肉で子羊は言ってみれば当て馬のひと皿だったらしい。それが、牛肉を選ばれずに、子羊に決められたことに、わたしはとても新鮮な勇気を感じたのだった。披露宴の代表撮影はシャンパンがサーヴィスされている場面だったから、だれもがそのシャンパンの姿から、ドン・ペリニョンだとわかったはずである。

主菜に添えたワインは?

では、主菜の仔羊の料理には、どんなワインがサーヴィスされたのか。子羊料理なら、常識的にいえば、ボルドーのメドックの赤ワインがよいと言われている。宮中ならば、赤は牛肉料理の調理法が何であれ、ボルドーの最高峰シャトー・ラフィットと決まっている。ところが、この披露宴ではラフィットどころかボルドーではなくブルゴーニュの赤ワインが合わせられたのである。それがなんと、ブルゴーニュはコート・ド・ニュイ地区シャンボール・ミュジニー村の「レ・ザムルーズ」だった。「レ・ザムルーズ」を直訳すれば「恋する乙女たち」。ホテルの方に伺えば、このワイン、紀宮様のご希望だったという。
なんと素敵なセレクション! わたしはこのワインの選択を紀宮様がなされたことを聞いて、胸を打たれ、いっぺんに宮様、いや黒田夫人のファンになってしまった。このところ、日本では2月のヴァレンタインデーともなると、チョコレートとは別に、ハートのマークがワインのラベルに記された、ボルドーはメドック地区サンテステーフ村の「シャトー・カロン・セギュール」が大人気である。子羊料理ならば、このワインを選んでもよいところ、それではポピュラーになりすぎるので、そのちょっと一歩先を行かれて、こういうロマンティックな名前の素敵なワインもありますよと、さりげなく示されたのではなかろうか。「レ・ザムルーズ」は小さな葡萄畑の名前で、ホテルは同じ畑の同じヴィンテージ(年号)のものを集めるのにとても苦労したらしいが、これが皇女から民間人になられる際の紀宮様のメッセージだったのである。ところが、このことはどこにも報道されなかった。

フランスの「エリゼ宮」では?

フランスでは、外国の賓客を招いての正餐はエリゼ宮で開かれる。その内容は、前菜、主菜、チーズ、デザートの四皿構成である。ワインは、まず白ワインではじめ、主菜のときに赤ワインがサーヴィスされ、それがチーズのときまで続き、そのあとシャンパンとなって、このとき互いにステートメントが交わされ、杯を挙げることになっている。余談だが、食事の前の別室でのアペリティフは、70パーセントの客がミネラルウォーターを飲むのだという。また、食卓につくとまずミネラルウォーターが注がれるのだとのこと。食事を通しての外交を得意とするフランスのエリゼ宮での正餐を、克明に調べてまとめた「エリゼ宮の食卓」(西川恵著)に、それらが詳しく紹介されている。
つまり、前菜、主菜、チーズ、デザートの四皿構成のコースメニューは、正統派であって、簡略化されたコース料理ではないのだ。紀宮様の結婚披露宴では、前菜、主菜、デザートでチーズが省略されたが、これは、御二人が御招待したお客様たちと歓談する時間を設けたいところから、やむを得ずカットしたものだという。このインテリジェンスが豊かでロマンティックなメッセージの溢れる披露宴をどうして「慎ましやか」などと評するのか。皇后様から受けただろう教養を、民間人になられても外交などに生かしていただきたいというのは、わたしも塩野さんの意見に全く同感である。本当に、もったいない。

2012/11/24 カテゴリー: 05.料理羅針盤 | 個別ページ

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100年を超えたフランスの「ミシュラン」は。

3つ星は料理人の野望

1900年に創刊した「ミシュラン・フランス」ガイドは、二つの世界大戦と1921年を除いて毎年刊行され、それが2009年で100冊目になり、2012年で103冊になった。

はじめは、パリから地方に車で出かける旅行者のためのホテルとレストランのガイドブックだったのが、20年以上毎年版を改めてゆくうちに、美味しい料理を提供するレストランに星印を与えるようになり、その星がいつしか料理人の目標となって、3つ星に輝くレストランのシェフは、フランス最高の栄誉に浴すると評価されるようになっていった。第2次世界大戦後になると、「ミシュラン」の星はいよいよ権威を増してゆき、“3つ星”はついには全料理人の野望となった。

「ミシュラン」は匿名による調査をモットーにしていて、それが「ミシュラン」の秘密主義をいっそう煽ることにもなっていった。フランスでは、いまでも食事をして勘定をすませてから、身分証明書を示して、はじめて調査員であることを明かし、厨房と手洗いを拝見となるらしい。清潔な厨房からしか美味しい料理は生まれないとの信念があるからだ。

前もって名乗らずに食事するだけであるから、覆面の秘密調査員ではなく、名乗れば顔が割れる。それでも厨房での滞在は20分と決められているそうで、その時間では、店側が慌てていることもあり、調査員の顔を覚えられることはないと、「ミシュラン」はプレスの配布資料で胸を張るが、本当だろうか。

「ミシュラン」抱えて旅に出る

ところで、わたしがはじめて「ミシュラン」を知ったのは、辻静雄の「パリの料亭」という一冊の案内書だった。1972年のことである。当時のパリの名だたるレストランを実際に食事にでかけたうえで、そのレストランの経歴、シェフの横顔、名物料理などの紹介をした充実した内容のガイドなのだが、店選びの元になったひとつがタイヤメーカーの発行する「ミシュラン」ガイドで、その評価はおおむね妥当だったと書かれていた。そのうえで、「ミシュラン」の簡単な説明が添えられており、わたしはその内容にとても興味が湧いたのだった。なにより料理長のことまで記述されていることが新鮮に感じられた。なぜなら、日本では一流の料亭の名前はよく知られていても、料理長の名前は誰も知らなかった時代である。そもそも、客は料理人に興味がなかった。例えば、当時、井上梅という女料理人の名で評判を呼んだ四谷の「丸梅」などは例外中の例外といってよかった。

翌73年になって、日本橋の「丸善」で「ミシュラン」の新版を手に入れ、分厚い辞書大の赤本をはじめて手にとった。そうして、これを元にこれからフランス中をくまなく食べ歩くぞと心を新たにしたものだった。

実際に73年10月、フランスにでかけて食べ歩きを始めると、「ミシュラン」は便利この上なかった。住所、電話番号のほか、定休日、予算はもちろんのこと、星印のついたレストランには、店の得意料理3品と地酒のワインまで明記されてあった。その赤いガイドが、黄色の表紙の地図と連動していて、外国人でも車での移動がいとも簡単に出来た。

「ミシュラン」を取材する

 73年10月といえば、料理ジャーナリストのアンリ・ゴーとクリスチャン・ミヨの二人が「ヌーヴェル・キュイジーヌ」宣言をしたことで知られている。この二人によるガイド「ゴー・エ・ミヨ」は、料理人のオリジナリティを積極的に評価し、とりわけ地方の有能な料理人の発掘に力を注いだ。例えば、オーヴェルニュのミッシェル・ブラス、サヴォワのマルク・ヴェラなどをいち早く紹介したのは「ゴー・エ・ミヨ」である。そうして、「ミシュラン」の対抗馬としての地位を着々と固めていったのだが、その動きにも「ミシュラン」は一向に動じず、慎重にゆっくりと評価を下す姿勢を崩さなかった。

ある年、確か85年だったか、TBS テレビの取材でフランスへ出かけ、「ミシュラン」の編集長にインタヴューする機会を得た。アンスペクトゥールと呼ばれる匿名調査員は一切顔を明かさないが、編集長は名前も顔も知られた存在だった。パリ7区のブルトゥイユ通りにある「ミシュラン」で、アンドレ・トリショー編集長はわたしの質問に淀みなく答えてくれた。
「フランス全土を取材調査するのに、15名の調査員がいて、15の地区をそれぞれが1年間担当します。すべて、フランス人で、外国人はいません。女性の調査員もおりません。もとの担当地区に戻ってくるのに15年かかるので、まず顔を覚えられることはありません」
そして、こんなエピソードも話してくれた。
フランス以外のフランス料理のレストランではじめて3つ星が与えられたのが、ベルギーはブリュッセル郊外の「ヴィラ・ロレーヌ」だったが、その決定を下すまで1年間に17人もの調査員が食事に出かけたとのことだった。この徹底した秘密主義による“神秘性”が数々の伝説を生んできたのだが、その“神秘”はいまだ生きているのだろうか?

「ミシュラン」の世界戦略

2005年に「ミシュラン」が、海を渡って「ニューヨーク」篇を発刊して、車で旅行する者にとってのガイドというコンセプトを捨て、世界進出をはじめた。07年秋にはアジア初という触れ込みで「東京」篇が出た。さらに09年秋には「京都・大阪」篇が出版された。日本ではじめて「ミシュラン」が出たというので大騒ぎになったのは記憶に新しい。

40年も「ミシュラン」を使いこなしてきた者から見ると、この10年ほどのフランス以外の都市篇は違和感を覚えざるをえない。「東京」篇で言えば、掲載した店をカラー写真で紹介し、長文のコメントを添えている。そのコメントを読めば、取材者と執筆者が違うことが歴然としており、店側の言い分をそのまま記述しているものが多い。いままでの秘密主義をかなぐり捨ててしまった印象を持つ人も少なくないのではないか。

かつて、名料理人アラン・シャペルはこう言っていた。「ミシュランは、ほかのガイドのようにピーチク、パーチクしゃべらないのがいいのだ」と。2つ星から3つ星に昇格しようが、3つ星から2つ星に降格しようが、その理由は一切書かれていない。読者が自分で店に出かけて確かめなさいというわけだ。いま、アラン・シャペルが生きていたら何というだろうか。

2000年版の「フランス」篇から、すべての店に3行のコメントを付け出した。これがおしゃべりのはじまりで、08年からは「エトワール(星)」というタイトルで雑誌まで出版しはじめた。つまりは、「ミシュラン」は、ここ数年で大きく方向転換を行ったということだ。グローバル化と商業化への大転換。

日本版「ミシュラン」の商業主義

2年前の「ミシュラン」フランス篇は、2週間も前に情報が漏れてしまい、昇格するすべての店がネットで公開されてしまった。以前には、このようなことはまずなかった。もはや秘密主義と神秘性は見る影もなくなってしまったといえる。

ただし、フランス篇を見る限り、ほかの「ミシュラン」と比べると、まだまだ往年の厳格さを保ってはいる。パリの3つ星のレベルは、ほかの都市に比べて、圧倒的に高いと言えるだろう。残念ながら東京の3つ星より質が高いと言わざるをえない。フランス篇と東京篇、関西篇は、すでにコンセプトからして大きく違うと考えたほうがよさそうである。北海道篇が1度きりの出版では、「ミシュランは世紀を超えて続く」と宣言した創案者のミシュラン兄弟が墓の下で嘆いているのではなかろうか。

2012/11/16 カテゴリー: 05.料理羅針盤, 06..ミシュラン | 個別ページ

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ロンドン「ザ・ファットダック」物語を旅する一皿

IMGP5987 (2)コペンハーゲンの「noma」に出かけた後、ロンドン郊外ブレイにある「ザ・ファット・ダック」を訪れた。パブを改装しただけだから、天井の梁は低く、壁はペンキを塗っただけといった極く簡素な内装で、席数も45席ほどしかない。そんなレストランがなぜ3つ星で、いま世界で最も予約の取りにくい1軒になったかというと、オーナーシェフのヘストン・ブルメンタールのオリジナリティ溢れる料理ゆえである。


ひとことで言えば、「エル・ブリ」のフェラン・アドリアが料理を科学にしたとすれば、ヘストン・ブルメンタールは化学の勉強から始めて料理に新風を送り込んでいるとでもいえようか。液体窒素を使った料理などはその一例である。

食事の最初にこの液体窒素が活躍する。スプーンにジンやカンパリやウォッカのエスプーマのムースを盛り、それを液体窒素が入った容器に流し込むと、ムースの表面が急速に凍結される。丁度マシュマロのような形状で、その上から抹茶を振り掛けたりレモンを絞ったりして、客の前に差し出される。手でつまんでひと口に頬張ると、冷たい感触と酒や抹茶やレモンの香りが口中を占領する。なんとも爽やかなスターターである。まるで、歯磨きでもしたような感覚といえようか。

そうして食事が始まった。まずは、2000年前の樫の木の樹液の香りを、フィルムとスプレイで再現した一品。キリストの誕生を予言した東方の三賢人がらくだに乗ってベツレヘムへ向かった道をジープで辿りながらヘストンが見つけてきた香りだという。

次は、辛子のアイスクリームを添えた赤キャベツのガスパチョ、さらに、野菜やサーモン、フォアグラなどで作ったロリーポップキャンディ。子供心に溢れた一皿。続いてエスカルゴ入りのポリッジ(お粥?)さらに、巨大な帆立とそのわたをムースにしてつめた大根。それから、お目当ての「マッド・ハターズ・ティ」の登場。

以前は、白い皿にハムや野菜が彩りよく盛られ、その脇にティーカップが運ばれてきて、金時計をかたどったティーバッグが入っていた。そこにスープが注がれるととたんに金時計は金箔の薄片に溶けてゆく。そのスープを白い皿に流し込んでスプーンでいただくと、海亀の濃厚な味にハムや野菜が絶妙な相性を見せる
のだった。

この8月に訪れたときは、ガラスのティーカップに海亀や野菜それに鶉の卵が盛られ、その上に同じくガラスのティーポットが乗っかり、この湯の中に金色の懐中時計を入れると、たちまちのうちに溶けだし、海亀の濃厚なエッセンスがにじみ出し、時計は金箔になったのだった。

まだその後2カ月しかたっていないというのに、今回は時計を箱の中から取り出す際にプレゼンテーションしてくれるのだが、その時計がカチカチ音を立てるのだった。このように、同じメニューを続けながら、料理が進化し続けるところが「ザ・ファットダック」の素晴らしいところである。

ヘストンさんによれば、「不思議の国のアリス」に登場する気のふれた帽子屋が紅茶の中に時計を入れてしまう逸話を、料理に仕立てて見せたのだという。私は、金時計がスープに溶けてゆく様子を眺めると、毎回鳥肌が立つ。何という秀逸なアイデアとその立体的な料理化だろうと。樫の木の樹液のフィルムが、
2000年前の旅をさせる一品とすれば、これは物語を旅する一皿ではなかろうか。
なんとロマンチックなこと。

IMGP7360 (2)続いては「サウンド・オブ・ザ・シー」。海の響きと題された料理は、ガラスの板にさばとかれいとあわびが並び、ひじきが添えられ、海草と野菜のエッセンスの泡がふうわりとかけられている。魚介の下に敷かれているのはタピオカとシラスで作った砂である。そして、これと一緒にほら貝の貝殻が運ばれてくる。そこにはiPodが仕掛けられていて、イヤホーンを耳に当てながら食べなさいというわけである。

聞こえてくるのは、波の音とかもめの鳴き声。
今回はさらに汽笛の音が加わっていた。目を瞑ると、海辺にいるような感覚になってくるから不思議である。食べ手を海辺に連れて行ってしまう一皿。 
ヘストン・ブルメンタールは料理の科学者だが、こうして卓上で時間と空間を自在に操って客に旅をさせる吟遊詩人でもある。

IMGP5989 (2)デザートの最後に登場したのは、「ニトロ・スクランブルエッグ」。銅なべに卵を割りいれ、そこへ液体窒素を流し込むと、しばらくするうちに見事なスクランブルエッグが出来上がる。これを取り出し、パンぺルュデュ(出来損ないのパンという意味のパン生地菓子)の上に載せ、さらに砂糖がけしてカリカリになったベーコンが添えられる。時間と空間を旅しているうちに時を忘れ、夜が明けてしまったので、「ファット・ダック」で朝食までいただく羽目になってしまった、というわけ。すべての料理デザートに最新のテクノロジーを駆使しての、郷愁をよびさますノスタルジーがある。

こういう、美味しいばかりでなく、子供心と悪戯心があって、才気に溢れ、機知に富んだ料理が、わたしは大好き。

2012/11/05 カテゴリー: 02.食べある記, 05.料理羅針盤, 11.旅行記(外国) | 個別ページ

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レストラン「noma」の午餐の意味するもの

IMGP7243 (2)最初のアミューズは、卓上の花瓶の中に隠されています。このあと、アミューズ15皿はすべて、手でつまんで味わい、自然のいのちを慈しみながら、自分の命をつなぐ糧としていただきます。鋭く尖った酸味や強い苦味は、雪の積もった土のなかで生命を宿したばかりの食材のいのちの証明。人が野生を取り戻すことで「食べる」とはなにかを、限られた、しかし、人間が手を加えてない北欧の稀少な食材を調理して、「生きる」ための美食なのか、「栄養をとる」ためだけの美食なのか、それとも「精神を豊かにする」ために美食するのかを、レネ・レゼッピシェフは私たちに問いかけているような気がします。食事して2日間たち、ようやく天才の考えていることが少し分かりかけてきました。

レネシェフ、玄関でお客様全員を笑顔で迎えてくれます。食後に調理場をお邪魔したら、いきなりスタッフに「みんな、この人、見たことあるだろ。『JIRO』の映画に出てきたヤマモトさんだよ!」いっぺんに打ち解けました。映画は、今まで見てきた料理の映画で最高と言ってくれました。

IMGP7291 (2) IMGP7297 (2) IMGP7322 (2)

2012/11/04 カテゴリー: 02.食べある記, 05.料理羅針盤, 11.旅行記(外国) | 個別ページ

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「コート・ドール」斉須政雄の料理

最初の出逢い

あれは1982年秋のことだから、もう30年も前のことになる。月刊「専門料理」のコラムに、パリの新星レストランの記事が載った。その年の3月に「ミシュラン」にいきなり登場して1つ星に輝いた「ランブロワジー」の紹介記事だった。

パリ16区の3つ星「ヴィヴァロワ」出身の料理人が開いた店で、調理場には日本人の料理人が働いていると、確か書いてあった。私が出かけていったのは、翌83年3月。予約を入れた2月の時点では1つ星だったが、3月の初めに出た「ミシュラン」の83年版で2つ星に昇格したばかりだった。昼の12時過ぎにひとりで店を訪れると、私が最初の客で、窓際の席に案内された。

6a014e8885c3c5970d014e8bf6aa3e970d店はパリ左岸トゥールネル河岸にあって、セーヌ川をはさんで向かいはノートルダム寺院だった。昼の窓側席は一応一等席だが、店は鰻の寝床のように細長く、内装は地味なグレーで統一され、席数はわずか26席、椅子はパイプ椅子といった具合で、とても「ミシュラン」2つ星にふさわしいレストランとは思えなかった。
席に案内してくれた女性がシェフのマダムのようで、挨拶も早々「日本人の料理人がいるので、彼を呼んできます」と言って、突き当りの調理場へ姿を消した。と同時に若い日本人が現れ、「こんにちは、斉須と申します」と自己紹介した。これが、斉須政雄さんとの初めての出逢い。調理場はシェフと自分の二人だけで料理を作っているとのことだった。そうして、彼のお勧めに従い、前菜に赤ピーマンのムース、主菜にオックステールの赤ワイン煮、デザートはコーヒーのムースをとった。

どの皿も簡潔な盛り付けで味も同様、まさしく素材の力を信じた料理、私はこういうシンプルなフランス料理を待っていたと、心のなかでつぶやいていた。

「赤ピーマンのムース」

当時は、1970年代から吹き荒れた「ヌーヴェル・キュイジーヌ」の嵐が一段落し、パリでは「アルケストラート」のアラン・サンドランス、地方ではアラン・シャペル、ミッシェル・ゲラールらが飛ぶ鳥を落とす勢い。わたしは、1973年から10年かけて、夏ならブルターニュ、冬ならアルザスといった具合に、その季節にふさわしい地方を巡っていたのだが、正直、日本人の味覚と感性にほどよく響くフランス料理にはなかなかお目にかかれていなかった。

その願いが、10年目にして、パリの「ランブロワジー」で叶ったというわけである。とりわけ鮮烈だったのが、赤ピーマンのムース。「ヴィヴァロワ」で、赤ピーマンのバヴァロワを食べていて、そのヴァリエーションであることはわかったのだが、ムースに添えたトマトのクーリ(ソース)の、熟してなおかつ爽やかな酸味がピーマンとのコントラストとハーモニーという二つの相反する作用をして、見事な味を生み出していた。赤ピーマンとトマトの妙なる二重奏といえばよいだろうか。白い皿に赤いトマトのクーリが敷かれ、三つのフットボール状の淡いピンクのピーマンのムースがふうわりと盛ってある。素材の持ち味を素直に引き出し、それでいて軽快にして奥行きの深い味わい。クリームが引き立て役になっているとはいえ、わずか二つの野菜から生み出されていることの、小さな奇跡。

幾多の素材を組み合わせたシンフォニーのような料理に圧倒され続けていた私は、ここでオアシスの水にたどり着いたような感動を受けたのだった。オックステールの赤ワイン煮も単刀直入な料理で、皿に鎮座するエアーズロックのような塊に、ナイフフォークを入れると、骨から肉がたちまちのうちに崩れ落ちた。
その牛尾の肉にはしっかりと味が浸み込み、これまたワインの酸味がソースの柱を支えていた。赤ピーマンのムース・トマトのクーリ添えが、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ「春」をイメージさせたとすれば、オックステールの赤ワイン煮は同じくベートーヴェンのピアノソナタ「テンペスト」を思わすような一皿。

「コート・ドール」開店

「ランブロワジー」のオーナーシェフ、ベルナール・パコォ「ランブロワジー」のオーナーシェフは、ベルナール・パコォといい、2度目にレストランを訪ねたときに、斉須さんが紹介してくれた。寡黙で情熱を秘めた人柄がすぐに伝わってきて、彼の料理をベートーヴェンの音楽にたとえたことは間違いない感じだった。

食材の生命力を信じて、料理の真実を突き止めようというパコォの料理哲学を、斉須さんはそれをそのまま持ち帰り、東京のレストランで展開し始めたのが三田のレストラン「コート・ドール」である。開店は1986年2月。

「コート・ドール」のメニューを飾ったのは、赤ピーマンのムース、季節の野菜のエチュべ、えいとキャベツのシェリー酢ソース、オックステールの赤ワイン煮などの「ランブロワジー」のスペシャリテに加えて、日本の食材を駆使した料理を次々に載せていった。梅しそのスープ、やがらや穴子のポワレ、白桃のスープ仕立て
などなど。

この写真は青しそのスープ先日、その梅しそのスープを久しぶりにいただいた。梅干の尖った酸味が主役で、しその香り、トマトの果汁、アボカドの滑らかさが脇をかため、浮き身に金糸かぼちゃを添えた夏の冷たいスープで、日本ならではの名品。彼は「十皿の料理」(朝日出版社)のなかで、こんな風に述懐している。(写真は青しそのスープ)

「もともと酸っぱい味が好きで、しかも、フランスではその使い方を学んできたものですから、どうしたって酢の味には敏感になります。で、梅干に気がひかれたんです。あれは、フランスの酢と肩をならべるくらいの強さがあります。日本古来の食べものがフランスの酢の味わいとどっこいどっこいというのも面白いことですが、どちらもやわじゃありません。うかうかしていると振り落とされる。これを使えないか、夏のスープにどうかと頭に浮かびました」

夏の食事には、なんと言っても食欲を掻き立てる酸味が大活躍する。夏に限らず酸味は料理の鍵を握る。酢がきりっと立った酢めしが、魚介の味を引き立てるにぎりずしの主役であるのと同じだ。ある時期から、おそらく減塩が盛んに叫ばれていたとき、酸っぱいと塩っぱいを混同して、塩分と一緒に酸味も敬遠されてしまったのだと思う。近頃、爽快な酸味を感じさせる料理がめっきり減ってしまった。そんななか梅しそのスープは、孤軍奮闘というか、そこはかとない味が闊歩する世の中に一矢報いる一皿といってよい。梅しそのスープばかりではない、えいとキャベツのシェリー酢ソースも、尖った酸味が活躍する逸品である。

現在、まさに円熟期

6a014e8885c3c5970d0177449ba250970d「コート・ドール」は86年の開店だから、すでに26年の歳月が過ぎた。その間に、シェフからオーナーシェフになったが、レストランの目指す方向は変更なし。最新の料理の影響も受けない。関心はあるが、自分の料理に組み入れるには興味がないというのが本音だろうか。野球で言えば、小細工を一切せず、フォー
クボールなども投げない、直球一本で勝負する剛速球タイプのピッチャー。

パリで会っていたときは、フランス料理と格闘する真摯な青年だったが、近年はごま塩頭の角刈りで、落語の「青菜」に出てくるような植木屋の職人風情である。愚直なほど頑固に見えるが、料理を味わえば、素材に対してどこまでも優しい素直な人柄と、素材をみっともない姿には仕上げたくないという高潔な品性が伝わってくる。仕事場である調理場の清潔感は天下一品。「掃除をすることでしか、この調理場で仕事できる幸運をお返しする手だてがありません」が、彼の口癖。

斉須シェフは1950年生まれだから、現在62歳になる。まさに、円熟期。

2012/11/02 カテゴリー: 05.料理羅針盤 | 個別ページ

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「次郎」さん、職歴80年おめでとうございます!

<1、にぎりで勝負のすし屋>
 10月27日、「すきやばし次郎」の小野二郎さんが誕生日を迎えられた。 大正14年(1925年)生まれであるから、今年で87歳、いまでも、毎日欠 かさずつけ場にたってすしをにぎっている。7歳の時に奉公に出て働きはじめた から、職歴80年になるのだという、まことにめでたい。
 
 わたしは、30年ほどまえから小野二郎の仕事ぶりをつぶさに見てきた客の ひとりだが、お世辞ぬきでいまが最も見事なすしをにぎっているといってよいの ではなかろうか。まず以前と大きく違う点は、客の嗜好の移り変わりというのが ある。いまから10年ほど前は、昼も夜も店は常連客が占め、遠来のフリの客は 少なかった。昼から酒が出て、誰もが刺身をつまみとして取り、仕上げににぎり をつまむといった具合で、「次郎」さんの両手が手持ち無沙汰であることもしば しばだった。
 
 それが、いまはほとんどの客が注文するのがにぎりのおまかせで、夜でも酒、 つまみを取らずににぎりのみを楽しんでいる。「これが本来のすし屋」と「次郎」 さんは胸を張るが、こんなすし屋は日本中広しといえども「すきやばし次郎」一 軒ではなかろうか。
 
 さらに、つけ場の職人の充実があげられよう。飛車角のごとく、「次郎」さん のもとに長男禎一さんと次男隆士さんの二人が揃っていた10年ほど前までは、調 理場にも若い職人が溢れていて、それぞれが自発的に有機的に仕事が出来ていた とはいいがたかった。それが、10年ほど前に隆士さんが独立して、六本木ヒルズ に店を構えると、本店は突然職人が少なくなり、そこへ持ってきてにぎりを食べ る客が急激に増えてきたものだから、仕事が俄然忙しくなった。たとえば、かん ぴょうを煮るのも以前には考えられぬほどの量を仕込むようになったという。こ うなると、若い職人たちは仕事を覚えるのが早い。
 
 <2、おまかせコース誕生>
 それが、おまかせコースの誕生で拍車がかかった。「次郎」さんは、15年ほど 前までは「にぎりずしなんていうものは、屋台からはじまったものですから、好 きなものを好きなだけ召し上がればいいんです」と言っていたにもかかわらず、 現在は「おまかせでにぎりを召し上がるのが、いちばん美味しいものがいただけ ます」と言い切ってはばからない。
 
 小野二郎は、常々、懐石料理にいくつもの起伏があるように、すしの「おまかせ」 にも理にかなった流れがあってもよいのではなかろうかと考えていた。いきなりまぐろをにぎる伝統的慣習的なやり方ではなく、フランス料理のように味の淡いものから濃いものへとすしだねを変えてゆくにぎりのほうが、すべてが美味しく 感じられるのではなかろうかと。
 そこで、まずはまぐろではなく白身のひらめやかれいからにぎることを考えた。
 みずから試してみると、文句なしに納得のいく味わいの流れだった。そこへ、醤油に漬けた赤身のまぐろ、湯がいたばかりの車海老、にぎる寸前まで冷蔵庫で保冷しておいたあじ、こはだなどのひかりものを組み合わせ、それらを人肌の温度に保った酢めしとあわせてにぎったのである。こうして、9年ほど前、「すきやばし次郎」のおまかせコースは誕生した。
 
 <3、コースは3楽章の協奏曲>
 秋口に出来上がった「おまかせ」は、確かつぎのような順番でにぎられていたように思う。まずはじめに、かれい、それからすみいか、しまあじとつづき、そのあと、まぐろの赤身、中とろ、大とろとまぐろが三貫でて、こはだとなる。それからは、その日ならではのすしだねということで、あわび、あじ、車海老、かつお、しゃこ、赤貝となる。さらに、ここからうに、小柱、いくらと軍艦巻きがでてからあなご、最後はかんぴょうの海苔巻き、おぼろ巻き、たまごでお仕舞い。


 わたしは、これをいただきながら、音楽の協奏曲を思い浮かべた。かれいから こはだまでが第一楽章、あわびから赤貝までがその日の旬のさかなということで、即興のカデンツァのある第二楽章、そしてうにの軍艦巻きからは終楽の第三楽章というわけである。
 
 酢めしはつねに、人肌の温度に保たれ、その酢めしに冷たいひかりもの、常温のあわびやあなご、ほんのりと温かい車海老といった具合に、温度が少なくとも三段階になった起伏がある。食べてみて、まるで颯爽として優美なモーツァルトのピアノ・コンチェルトを聴いているような、瑞々しい感動があった。

 <4、小野二郎の独創>
 「おまかせ」はにぎる順番がきまっているから、「次郎」さんがにぎるその手の動きに合わせて次のすしだねの準備をすればよい。だが、客のお好みの注文ではこうはいかない。車海老の声がかかれば、そこから行動開始となり、時として湯がくのに手間取ったりしていると、つけ場のすし職人は「まだかい」といらいらしながら調理場に声をかけることになる。いま店ではこういうことがまずなくなった。まるで協奏曲を聴くようと評したが、つけ場のなかの「次郎」さんがオーケストラの指揮者とすれば、長男禎一さんはコンサートマスター、後の若い職人たちは指揮者の棒に合わせて流れるような演奏を聴かせてくれる奏者たちなのである。このあたりのことは「至福のすし」(新潮新書)にすでに詳しく述べ
 たことなので、ここでは重複は避けるが、9年たって「おまかせ」の洗練度は相当に増してきたといってよい。
 
 江戸前のにぎりずしは、すでに完成され、古典ともなっているので、もはやオリジナリティは必要ないと思われるだろうが、小野二郎の独創はとどまるところを知らない。振り返ってみれば、にぎる直前に車海老を茹でるというのは、小野二郎がその嚆矢である。それも、すでに25年も前からのことである。同じように、冬のたこを湯がきたてで出すのも、かつおを藁であぶってからにぎるのも、すしの世界では小野二郎の独創である。こういうことを取り上げていけば切りがないほど。
 
 以前「至福のすし」のなかで、わたしは「小野二郎のすしは宝石のように輝く。その一つ一つが小さな奇跡である」と書いた。いまだに、出かけるたびにその感動が更新されるのだから驚くほかない。
 
 小野二郎を敬愛するひとり、フランス料理のジョエル・ロブションは、「ムッシュー・ジローのすしを一言でいえば『ピュア』」と評する。「すしというシンプル極まりない料理にこれほど奥行きを感じさせることができるのかを、わたしは『次郎』で学んだし、シンプルを極めることが日本料理の真髄でもあることも
 教えられた」と小野二郎の仕事に賛辞をおくりながら、いまだに食べるたびに絶句してしまう瞬間が、かならず2、3回はあるのだと言う。
 
 天下のロブションにこうまで言わしめる小野二郎は、それでもさらににぎりずしが美味くなる何かがあるのじゃないかと、目を光らせ、鼻を利かせてつけ場に立っている。その姿勢の凛々しいこと。あらゆる職人の手本といってよい。

2012/10/27 カテゴリー: 05.料理羅針盤 | 個別ページ

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「Hajime」のフォアグラについて書こう。(料理羅針盤 vol.3)

今更と思われるのを承知で、「フォアグラ」の話をしよう。「フォアグラ」は、フランス料理がどんなに進化しようと、贅沢な御馳走に変わりがない。はじめてフランスへ出かけたとき、その着いた晩の最初に食べた料理がフォアグラだった。いや、フォアグラの正体を見極めたいとフランスへ旅したと言ったほうがいいだろうか。

1970年代はじめ、日本ではまともなフォアグラは食べられなかった。缶詰や陶製の壺に入っていたから、日にちがたてばどうしたって脂が酸化する。フランス料理の三大珍味と言われても、さっぱりその値打ちがわからなかった。これは本場に出かけて味わってみないまでは正確な判断はできないと、それが動機の一つになって、1973年10月にフランスへ旅立ったのだった。

パリの最初の晩に出かけたのは、サンジェルマン・デ・プレにある「ブラッスリー・リップ」というアルザス料理が売り物のレストラン。料理店というより高級食堂といった感じの店でいまでもある。この店を選んだ理由は、予約もなしに出かけても余裕がありさえすれば席につけ、アルザス料理だからフォアグラの本場ストラスブール産のものがあるに違いないと読んだからである。

果たして、メニューに「ストラスブール産フォアグラのテリーヌ」があった。そうして、それを一切れ口に運んで味わうと、たちまちのうちに名解答が現れた。フォアグラは、脂の香りが生命であると。

以来、どれほどのフォアグラの名品に会ってきたことだろう。初めての旅では、リヨンの「ポール・ボキューズ」でも、ヴィエンヌの「ピラミッド」でも、味わい深いフォアグラに出会った。「ピラミッド」のフォアグラはブリオシュに包まれて出てきて、フォアグラの脂が卵の香り豊かなパンに溶けて、まるで桃源郷にいるような味わいだった。

そう、フォアグラにはボルドーのソーテルヌが絶妙の相性を見せることを経験したのは、ボルドーから40キロほど北東に向かったサンジャン・ドゥ・ブレニャックにある「オーベルジュ・ドゥ・サンジャン」という80年当時の「ミシュラン」2つ星で、前菜に選んだフォアグラのテリーヌをソムリエに言われるがままソーテルヌの小瓶を取って合わせると、たちまちのうちに夢心地になった。料理とワインの相性の良さがどれほどのものかを、脳髄がしびれるほどに記憶が刻まれたのだった。主菜には仔鳩のローストをオーダーしていたのに、フォアグラとソーテルヌで食事が完結してしまった感じで、仔鳩にはまことに申し訳なかったことを思い出す。

それから、「ジャマン」時代のロブションの仔鳩とフォアグラを縮緬キャベツで巻いた料理と「ランブロワジー」のトリュフのパイ包み焼き。赤身の肉の仔鳩に油脂を補強するようにフォアグラを添えてあるのは、ロッシーニ・ステーキでヒレにフォアグラを載せる発想と同じだが、溶け出したフォアグラがソースにもなって、仔鳩と鴨のフォアグラの相性は格別だった。また、キャベツのしわにしみ込んだフォアグラソースの味も忘れ難い。この料理、いまでもパリの「ラトリエ・ドゥ・ジョエル・ロブション」でお目にかかれる。3年ほど前に久しぶりに食べたが、再び同じような感動がやってきて、ずいぶんと息の長い名品である。

「トリュフのパイ包み焼き」は、「ランブロワジー」が左岸のトゥールネル河岸にあった時代からのスペシャリテで、レストランが現在のヴォージュ広場に移ってからも、冬になれば必ずメニューに載る。この料理、フォアグラとトリュフを逆転させたユニークなもので、分厚いトリュフがフォアグラをサンドして、パイで包んである。フォアグラとトリュフは古典的相性だが、それまでフォアグラの2倍の量をトリュフに使うなど考えもしなかった。いや、南仏ラ・ナプールの3つ星だった「ロワジス」のルイ・ウーティエは、丸ごとのトリュフにフォアグラを塗って、球体の「びっくりトリュフ」を作ってみせたっけ。パイ包みはトリュフが主役のひと皿だが、フォアグラが見事な女房役を果たしている意味で、これもフォアグラの名品に数えていいのではないかしらん。

日本では、銀座「ロオジエ」のかつてのシェフ、ジャック・ボリーの作ったフォアグラのテリーヌが忘れられない。けれんみのない堂々としたテリーヌで、彼の故郷の料理ならではの味だった。ボリーシェフは、鴨が主流になっても鵞鳥のフォアグラにこだわった。鴨に比べて、鵞鳥のフォアグラはコクがあると言えようか。

それから、恵比寿の「タイユヴァン・ロブション」時代にも、ロブションの精妙で優美なフォアグラ料理を味わった。鴨肉とフォアグラを抱き合わせて、一緒に加熱しながら、双方に見事に火が入ったひと皿。付け合わせは、洋梨、葡萄などの秋の果物で、まるで古典の絵画を見るような趣だった。このように、思い出せばキリがないほどにフォアグラ料理を味わってきたのだが、歳とともに、次第にフォアグラを敬遠するようになり、不遜にも、フォアグラはもう食べ尽くしたと、タカをくくってしまっていた。

そこへ、2009年、突然現れたのが大阪「Majime」のフォアグラのコンフィだった。9月にはじめて出かけたとき、フォアグラがサンドイッチになって登場し、その美味しさには気がついていたのだが、秀逸なアイデアに気を取られ、フォアグラそのものの美味さは二の次になってしまっていた。

ところが、12月に出かけたとき、再び、今度は真っ向勝負の直球で出てきた。見た目はテリーヌなのだが、その色艶といい、照りといい、かつて見たこともないフォアグラの色合いだった。ナイフを入れて口に運ぶと、浮雲のような軽さで、あくまでも優しく舌の上で溶けてゆくのだった。フォアグラならではの妖艶な油脂の味わいと品の良いその香りはかつて経験したものなのに、後味が何とも颯爽としている。まさに、衝撃の一品。わたしは、フォアグラはもう結構という自分を恥じた。
〈まだ、こんなに美しいフォアグラがあるじゃないか〉
ただし、そのフォアグラの正体が見破れなかった。というより、表現しようする言葉が見つからなかった。

そうして、2010年3月、三たび「Hajime」へ出かけると、フォアグラは現れなかったものの、豚肉の長時間調理というひと皿が出てきた。これが、また見事なほどに均一に火が入った調理で、外目と芯が同じ淡いピンクの色合いを漂わせているのだ。肉質はどこまでも柔らかく、しかもジューシーで噛み応えもきちんとある。なにより、豚肉の香りと味わいがどこにも逃げずに、豚肉の魅力がすべて皿の上で言い尽くされている感じなのである。唸って言葉を失うほどの美味しさだった。その瞬間、前回のフォアグラが蘇ってきた。フォアグラも全く同じことが言えるのではないかと。

フォアグラの歴史はローマ時代にさかのぼることが出来、料理を書き残したアピキウスの書にもフォアグラの記述がある。それから2千年を経ているが、米田肇シェフはフォアグラに一度ずつの単位で火を入れることで、今までどの料理人もなしえなかったフォアグラの鉱脈、核心の味を抽き出して見せた?

最新の科学を取り入れた技術と、食材を前にしての深い思索によって生み出したひと皿。コンピューター技師から料理人になったシェフならではのフォアグラの大傑作である。

2012年はさらに進化していて、フォアグラの融点の限界で調理し、皿もナイフ・フォークもフォアグラと同じ温度でサービスされ、切り分け口に運んだ途端、溶けて香り高く妖艶な油脂に変身するというもの。世界の最先端をゆくフォアグラ料理である。

もはや、フォアグラを食べ飽きたなどといってはいられない。「美食」には、いつも退廃的な香りがつきまとうが、名料理人の料理芸術、料理哲学に触れる食事こそ「美食」の名にふさわしい。

2012/10/19 カテゴリー: 05.料理羅針盤 | 個別ページ

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「ミシュラン京都大阪神戸奈良2013」に思う。(料理羅針盤 vol.2)

16日午後、「ミシュラン京都大阪神戸奈良2013」のセレクションが発表になり、なんと、3つ星から「つる家」「未在」「Hajime」の3軒が降格となった。「Hajime」は今年も絶好調で、日本のフランス料理の最高峰と思っていただけに、これは信じがたい審判である。とりわけ、フォアグラの扱いには長けていて、いまだ進化を遂げ、世界最高のフォアグラ料理を味わえる1軒である。なにかで「ミシュラン」の調査員のご機嫌を損ねたとしか考えられない。「ミシュラン」は2004年に発刊した「ニューヨークシティ2005」篇からヨーロッパを離れて、アメリカへ進出した。その「ニューヨークシティ」篇の最大の特徴は、星つきのレストランにのみ写真を添えたことだった。それまでの、フランス篇をはじめとするヨーロッパの「ミシュラン」は、都市の地図をベースに各店舗の案内とそれに添えられた数行の文章のみで構成されている。「フランス」篇では1999年版までは、店舗の案内記号と料理のスペシャリテと地酒のみで、コメントさえ載っていない。したがって、あるレストランが、2つ星から3つ星に昇格しようが、3つ星から2つ星に降格されようが、その理由は一切書かれていない。ガイドを使う読者が自分で出かけて判断しなさいというわけである。そして、「ミシュラン」フランス篇の2005年版からは、3つ星の定義が劇的に変化した。2004年版までは、「そのために旅行する価値がある卓越したレストラン」だったものが、「そのために旅行する価値がある卓越した料理」に書き換えられたのだ。そのことは、前書きにはっきりと書かれてあるのだが、気がついている方はどれほどいるだろうか。2004年までの3つ星レストランの定義は、「そのために旅行する価値がある」に続いて、素晴らしいワイン、間違いのないサービス、エレガントな内装とある。つまり、料理がいくら「卓越」していても、飲食店としての格がそれに付随していなければ、決して3つ星は与えられなかったのだ。それが、2005年から、どうして皿の中だけで3つ星が決められるようになったのか。わたしの推理によれば、2004年版の「イングランド」篇で、ロンドン郊外のレストラン「ザ・ファット・ダック」に3つ星が与えられたが、星印のほかにすべての店舗につけられている快適度を示すフォーク・スプーン印が、史上初の最小の2つだった。ちなみに、最高の5つは「豪華で最高級」4つは「最上級の快適さ」3つは「非常に快適」2つは「快適」1つは「適度な快適さ」となっている。つまり、「非常に快適」ランク以上でなければ3つ星レストランとしてふさわしくないとしてきたのだが、「ザ・ファット・ダック」の料理があまりに「卓越」しているものだから、レストランがパブを改装した天井の低い店であってもつけざるを得なかったのではなかろうか。そこで、翌年から3つ星の定義を変えたのだ。というより、曲げたというべきか。したがって、2005年は「ミシュラン」の歴史にとって、写真を添えたことと3つ星の定義を変えたことで大転換点だったといえるだろう。総責任者が交代した時期とコレが一致する。ところで、「ミシュラン」は「ニューヨークシティ」篇から、店の承諾を得て写真を掲載することになったが、これで事前に星つきの店が判明してしまうこととなった。この例を参考に取材すれば、「ミシュラン」発刊前に、どの店に星が与えられるか容易に分かることとなった。2007年11月に「ミシュラン東京」が発刊されたが、そのおよそ半年前の3月、「ミシュラン」は六本木ヒルズでパーティを開き、11月に「東京」篇を出版すると宣言した。その後、レストランに食事に出かけたついでに店の方と「ミシュラン」の話題となり、調査員が支払いを済ませたあと名乗りを上げ、後日写真を撮らせて欲しいと願い出ていったと聞けば、その店には星が与えられることが一目瞭然である。そうして、発刊の約1ヶ月前、いくつかの店に「ミシュラン」からファックスや手紙が届き、それが出版記念パーティへの招待状だった。受け取った店が、3つ星か2つ星を獲得するであろうことは予想するに十分である。ジャーナリストなら、こうしていわゆる裏を取る取材を重ねていけば、かなりの精度で星つきレストランが予想できるはずである。「ミシュラン」が出るまで、このガイドブックの歴史と最近の傾向を下調べせず、出版されたところであわてて取材を始めるのは、ジャーナリストの怠慢以外のなにものでもない。11月末に発表される「ミシュラン東京横浜湘南2013」を予想すれば、創刊年以来初めて、新たにフランス料理店に3つ星が与えられるのではなかろうか。この1年東京を食べ歩いた結果、それはきっと銀座「エスキス」ではないか。外れていたら、「エスキス」と「エスキス」のファンにごめんなさい。数年前、こうして地道に食べ歩き、丁寧な取材を重ねている私を、自分の雑誌で「ミシュラン」のまわし者とか関係者と断定した幻冬舎の見城徹社長は、いまでもその見解を撤回していない。同様に料理ジャーナリストで作家の宇田川悟さんも根拠のない発言をしながら、その失言を取り消していない。おふたりとも同じジャーナリストとして情けない。過ちは「ミシュラン」だって、誰にだってあるのだから。

2012/10/18 カテゴリー: 05.料理羅針盤, 06..ミシュラン | 個別ページ

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